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太平洋戦争の時、大阪から疎開してきた中学校の同級生と親友になり、終戦後も友情が続いた。昭和24年8月、大阪に帰ったその親友の招きで上阪し、最初に連れていってくれたのが西宮球場。一リーグ制時代の最後の年で、阪神vs阪急戦だった。もちろんプロ野球を見たのはその日が初めて。藤村・呉・本堂・別当・土井垣などなどのそうそうたるメンバーがいたが、中でも若林監督が、幼稚園児くらいの我が子にタイガースのユニフォームを着せ、親子でキャッチボールをしている光景は、ほほえましく、いまでも目に焼き付いているそうだ。これがきっかけで半世紀以上、阪神タイガースただ一筋の大ファンになった。実は金澤さんは、母校の県立高校ほか、数校の校章デザインをはじめ、数々のグラフィック・デザインを手がけているデザイナーである。タイガースのロゴマーク、縦縞のユニフォーム、帽子のHとTのマーク、虎のマークなど、どれをとっても完璧なデザインだと言い、ゾッコン惚れ込んでいる。
テレビ放送が始まった当初は、高知の民放テレビは読売系だけだったので、阪神のゲームが見られない。仕方なく高感度ラジオを買って、400坪近い自宅の中で朝日放送や毎日放送がキャッチできる場所を必死になって探し、聞き耳を立てたという。そんな苦労を続けていたが遂に5〜6年ほど前にケーブルテレビが須崎市に誕生。今ではタイガースのゲームが95%以上見られるようになった。
三人のお嬢様にも小さいときから阪神のユニフォームのパジャマを着せて、見事熱烈ファンに育てられた。奥様も劣らぬタイガース・ファンである。
金澤さんは須崎市周辺の虎キチたちと、前回優勝した昭和60年に「土佐酔虎会」を結成しておられ、楯縞をもじって「楯島虎吉」というペンネームを持ち、虎マークと名入りの印鑑を押した立派な名刺も作っている。高知県地元阪神ファンの中では知らぬ人のない重鎮である。その土佐酔虎会の感動の訓辞集『タイガースが優勝するために、我々にできること・すべきこと』をご紹介しよう。
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